野見宿祢の自伝 19
わたしはホムチワケさまのお供をして、わたしの故郷である出雲の国に来ていた。
「父上、お久しぶりです。大和のほうから伝令が来て、話は承っております」
出迎えてくれたのは、わたしの息子であり、わたしの後を継いで出雲国造を務めているキイサツミだった。
さっそく我々はキイサツミの案内でオオクニヌシの大神の神殿に出向き、そこで一心に 大神のために祈った。朝廷の責任において神殿を建て替えることも約束した。
その日の夜。
キイサツミはホムチワケさまのために、斐伊川のほとりに仮宮を建てて宴を開いてくれていた。
仮宮の周囲は青葉で盛大に飾り付けがなされていた。
その仮宮でホムチワケさまにお食事を差し出したときのことである。
「この川下に見える、青葉のようなものは、山のようだがよくみると山ではないな・・・
あれは、石硐の曽宮(いわくまのそのみや)にいらっしゃる、オオクニヌシの大神をお祀りする場所なのか?・・・」
・・・ホムチワケさまの声だ!
生まれて一言も言葉を話したことのなかったホムチワケさまが、初めて言葉をしゃべったのである!!
「ホムチワケさま!言葉がしゃべれるのですか!?」
「え・・ああ・・そういえば・・・」
「ホムチワケさま・・・良かった・・・」
わたしもキイサツミも、大和から一緒に来た従者一同も、大変喜んだのは言うまでもない。
さっそくわたしは、大和に向けて急使を立ててこのことを知らせたのだった。
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☆キイサツミ
古事記には出雲国造の祖として「岐比佐都美」(きひさつみ)という名で記されています。第14代の出雲国造とされる「来日田維穂命」(きひたすみのみこと)と同一人物だとされています。
出雲国風土記では「天津枳比佐可美高日子命」(あまつきひさかみたかひこのみこと)という名で出ています。
出雲市斐川町の曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ)では天津枳比佐可美高日子命を祀っており、また古事記に出てくる「石硐の曽宮」のことだともされています。
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