神武天皇の自伝 8
我々は高島宮を出港し、東に向かっていた。
風は順調、追い風の乗って艦隊は進んでいた。
そんなあるとき・・・
「イツセさま、イワレさま、あれをご覧ください」
従者が船の進む先を指さす。その指した指の先には・・・
大きな亀がいた・・・
いや、亀だけではない!亀の背に人が乗っている!
亀に乗って、釣りをしていたのだ!
我々はあっけにとられてその姿を見ていた。
そうこうしているうち、艦隊はその亀に乗った人の近くまで近づいてきた。
すると、兄イツセが呼びかけた
「おい、そなたは、この国のものか?」
「はい、さようでございます」
その人は答えた。
「そうか。ここまでは穏やかな航海が続いてきたが、この先、海の様子はどうだ?」
「はい、この先、海が狭まりとても潮の流れが速いところがございます。速吸門(はやすいのと)と申しまして、これまで数多くの船が遭難しております」
「そうか・・・それは危険だな・・・」
その時、わたしにはある考えが浮かんだ。すぐにそれを兄イツセに伝えた。
「兄上、どうでしょう、この人を案内人として雇ってみては」
「おう、それもいいな・・・おい、そなた、我々に仕えないか?」
「はい、謹んでお仕えいたします」
あっさりと決まってしまった。
そこで旗艦を彼が乗る亀に近づけ、竿を差し出して彼に船に乗り移ってもらった。
彼にはサオネツヒコという名を与えた。
こうしてサオネツヒコの案内で、潮の流れのはやい速吸門を艦隊は無事に通り抜けていった。
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☆速吸門
古事記では吉備を出港してほどなく「速吸門」と言われる場所に差し掛かります。地理的に言って明石海峡のことだと思われます。
一方で日本書紀では日向を出港後すぐに「速吸之門」に差し掛かります。これは今も「速吸の瀬戸」(はやすいのせと)と呼ばれる豊予海峡のことだと思われます。
☆サオネツヒコ
古事記での表記は「槁根津彦」(さおねつひこ)、日本書記での表記は「椎根津彦」(しいねつひこ)。倭国造(やまとのくにのみやつこ)の祖となったとされています。
岡山市の亀石神社には、サオネツヒコが乗っていた亀が石になったという「亀石」が祀られています。
また日本書記で速吸之門とされている豊予海峡近く、大分市佐賀関町には椎根津彦神社が建立されています。
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