神武天皇の自伝 5
宇佐を出港した我々の艦隊は、そのまま九州の東岸を北上し、筑紫の国に入った。ここは瀬戸内と玄界灘の境にある海上交通の要所である。
我々は休養・補給とともに、東征への足掛かりとしてこの地を抑えておこうと考えていた。
そこは豪族の熊族が支配する土地である。熊族はこれまでも我々には親和的な民族だった。
我々はここに行宮として岡田宮を建て、しばらく滞在していた。
そこに熊族の長老が訪ねてきた。我々に歓迎の意を述べた後
「今年は潮の流れがいつもと違って魚があまりとれていません。このため大したおもてなしはできませんが、お許しください」
という。
兄イツセは
「いや、御苦労。気を使わなくてもよいぞ。だが、魚が取れないとは・・・大変だな」
と答えた。
熊族は漁を中心に生活している海洋民族である。そこそこ豊かな生活をしていたが、採集に頼った生活というのは不安定で時期によっては何も取れないこともあった。
熊族の長老は、不漁で民が困っている様子も我々に話してくれた。
イツセは
「う~む、それは大変だな・・・何か良い手立てはないものか・・・」
と、考え込んでいるようだった。
そこで、わたしはイツセに進言した。
「兄上、ここは稲作の技術を熊族に教えてみてはいかがでしょう。米であれば毎年安定した収穫が期待できますし、頑張りしだいでいくらでも多く収穫できますから、民の生活を豊かにするにはうってつけではないでしょうか」
「そうだな・・」
そしてイツセは熊族の長老に向かって
「お前らのところで稲作をやってみる気はないか?」
と尋ねた。
長老は喜んで、我々の申し出を受け入れてくれた。
こうして我々は熊族に稲作の指導を始めた。基礎から根気よく、ひとつづつ・・・
しかし熊族の民も頑張って、よく知識を吸収してくれた。
こうして岡田宮での滞在は一年にも及ぶことになった。しかしその間、熊族たちは稲作という大きな財産を我々から授かったのだった。
日本の民が豊かになるということは、統治者にとってとても喜ばしいことである。わたしとイツセはとても満足だった。
我々はこうして、熊族の盛大な見送りを受けながら出港した。
艦隊は瀬戸内海に入り、西へ西へと進んでいく・・・・
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☆岡田宮
イツセ・イワレが熊族に稲作を教えたという話は、産経新聞ウェブサイトの記事を参考にしました。
神武天皇が一年間滞在した岡田宮。
現在の北九州市八幡西区の岡田神社と言われています。
ただし岡田神社が現在地に移転したのは江戸時代のことで、それまでは現在の一宮神社の地にあったといわれています。
また、日本書紀には「岡水門」(おかのみなと)と記されています。
遠賀川河口にある遠賀郡芦屋町の神武天皇社が岡水門の跡と伝えられています。
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