国引き神話 3
さて、新羅から国を引いてきて、出雲の国の土地は少し増えた。しかしまだまだ小さい。もっと他にひいてこれる国はないかと、海の彼方に目を凝らしてみた。
すると、目に留まったのは北門の佐伎(きたどのさき)だった。そこはそのころまだ誰もいない離島だ。よし、ここからなら国を引いてきてもいいだろう。
そう考えたわたしは、少女の胸のような平らなすきを持つと、海を北門の佐伎に渡っていった。
そしてすきを深く突き刺すと、その地を島から切り離したのだ。大魚のえらを突いて、その身を切り離すように。
そして切り離した土地に、三つ縒りの太い綱を打ちかけた。そしてわたしは出雲の国に戻ると、その綱を手繰って引き寄せたのだ。
あたかも川につながれた船を手繰り寄せるように、そろりそろりと。「国よ来い、国よ来い」と唱えながら。
こうして引っ張ってきた土地は、多久の折絶(たくのおりたえ)から狭田(さだ)までの国である。
その後、同じように、北門の波良(きたどのはら)から国を引っ張ってきた。「国来い、国来い」と唱えながら。
そして引っ張ってきた土地は、宇波の折絶(たしみのおりたえ)から闇見(くらみ)までの国である。
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☆北門の佐岐・北門の波良
「北門」とは出雲の北の門、すなわち隠岐の島を指すと思われます。
「北門の佐岐」とは隠岐の中ノ島の海士町崎だとも言われていますが、「北門の波良」というのはわかりません。
☆多久の折絶から狭田まで
多久の折絶とは宍道湖の北、松江市鹿島町北講武・南講武の付近と考えられています。
南講武には多久神社があり、ヤツカミヅオミヅノの子であるサワケの妻(すなわちヤツカミヅオミヅノの義理の娘)ミカツヒメを祀ってあります。
狭田は松江市鹿島町佐蛇本郷付近とされています。出雲国風土記に「佐太御子社」と記載される佐太神社も存在しています。
☆宇波の折絶から闇見まで
「宇波」は「手染」あるいは「手浸」の誤記かと言われています。中海の北、松江市手角(たすみ)町付近とされています。
「闇見」は中海の西、松江市新庄町付近と考えられています。出雲国風土記には「久良弥社」と記載がある久良弥神社(くらみじんじゃ)が残っています。
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