神功皇后の自伝 20
オシクマの反乱も落ち着き、わたしは皇子のホムダワケ、建内宿祢(たけうちすくね)をはじめとする家臣らとともに大和に帰ってきた。
大和の民は、朝鮮を平定して帰ってきた我々を大歓迎で迎えてくれた。
そして十数年の時が経った。ホムダワケは立派な稚児に成長していた。
そんなある日、武内宿祢はホムダワケを連れて、近江・若狭を経て、高志の国の手前にある角鹿(つぬが)まで旅に出ていた。旅の目的は禊(みそぎ)である。
敵を欺くためとはいえ、ホムダワケは死者の喪船に乗せられた。なのでホムダワケには死者の穢れがまとわりついており、これを禊で清める必要があった。
ホムダワケが長旅に耐えられるだけの年齢に成長するのを待って、禊に出発したのである。
その後、建内宿祢からホムダワケの様子の便りが送られてきた。それによると・・
角鹿まで来たホムダワケは、仮宮を造りそこに建内宿祢のほか、ごく少数の従者とともに滞在していた。
そんなある日、ホムダワケは夢を見たという。
夢の中には、その地に鎮座するイザサワケの大神が出てきて
「和が名と御子の名を取り換えてほしい」と仰せになったという。
ホムダワケは
「恐れ多い事であります。大神の意のままに、わたくしは従います」
と答えると
「明日の朝、浜に出るがよい。名を変えてもらった証をそなたに送ろう」
と、その神は仰せになったそうだ。
翌朝、ホムダワケは武内宿祢を伴って浜に出てきた。 そこで見たものは・・
海岸を埋め尽くすほどの、大量のイルカだった。
これは神からの贈り物だ・・・そう感じた二人は、海に向かって心から礼を述べたという。
その神をたたえて二人はその神を「御食津大神」(みけつおおかみ)とたたえて祀ったが、ほどなく地元の民は「気比大神」(けひのおおかみ)と呼ぶようになったとのことだ。
また、その地を「血浦」(ちうら)と名付けたが、これもほどなく地元の民は「津奴賀」(つぬが)と呼ぶようになったという。
前<<< 反乱軍の最期 - 古事記の話 (hatenablog.com)
次>>>
☆気比神宮
「津奴賀」(つぬが)は現在の福井県敦賀市です。この話に出てくる「気比大神」は、敦賀の気比神宮で祀られています
名を取り換えよう、とはどういうことでしょうか。ホムダワケはこの後もホムダワケであり名は変わってません。
一説には「名」と「菜」の交換、すなわち敦賀の有力者に対して「名」を下賜し、返礼として「菜」(食物)を献上した、ということを象徴した説話だということです。
≪古事記・古代史関連の姉妹サイト≫
小説古事記
古事記ゆかりの地を訪ねて
≪その他の姉妹サイト≫
≪ツイッターもしています≫
https://twitter.com/sikisima10