ヤマトタケルの自伝 21
わたしはさらに従者を従え船を進めていった。流れ海に入り、広大な入海である流れ海の北方を拠点としていた民族を、新たに朝廷に服させた。
こうしてこの地も平定したわたしは、槻野(つきの)に上陸した。そこにはきれいな泉が湧いていた。
わたしはその清らかな水に、連日の遠征で疲れた手を浸し、清水で喉を潤した。
・・・その時だった
「あっ・・・」
わたしはついうっかり、身に着けていた玉を泉の中に落としてしまったのだ。深い泉の中に落としてしまった玉は、拾い上げることはできなかった。
その玉は、今も泉の中に残っていることだろう。
そこから陸路わたしは北へ進んでいった。
現原(あらはら)の丘に登った時、その土地の長老が食事を献上してきた。その丘からは四方が見渡せた。
わたしは従者たち、また食事を献上した長老に対して言った。
「こうしてここに立ち止まって、改めて見渡してみると、ここはいい土地だな・・・
山や川、海岸線が行程入り混じってどこまでも続いている。山の峰には雲が浮かび、谷は霧を抱いている。何もかも美しく、豊かな広い国だ・・・
この国の名を行細し国(なみかしくに/土地の構成が豊かな国)と読んだらどうだろう」
長老は「はい、おそれいります」と答えた。それ以来、その国は行方(なめかた)と呼ばれているようだ。
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☆倭武天皇
この話は記紀には載っておらず、常陸国風土記の物語をもとに構成しました。
常陸国風土記にはヤマトタケルは「倭武天皇」(やまとたけるのすめらみこと)と記されています。
ヤマトタケルが天皇として即位したという記述は記紀にはありません。しかし天皇になっていたという伝承も伝わっていたのでしょうか。
☆流れ海
現在の霞ケ浦です。今は内水の淡水湖ですが、昔は太平洋に通じた広大な内海でした。
☆玉清井
ヤマトタケルが玉を落としたと伝わる槻野の泉は、常陸国風土記に「今も行方の里にあり、玉清井と言われている」と記述されています。
茨木県行方市井上の玉清井がその伝承地とされています。
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