ヤマトタケルの自伝 11
わたしは西国を平定して大和に戻ってきた。
宮殿に戻ると、わたしは何よりも先に父である天皇に奏上した。何よりも父が喜ぶ顔が見たかった・・・いや、父に認めてもらいたかたったのである。
「父上、九州の熊襲をはじめ、西国の朝廷に服していない部族をことごとく征服してまいりました!これでもう、西国はすべて朝廷の支配下であります!」
父の顔を見るとうれしさがこみあげてきた。そして、わたしは優越感にひたっていた・・・父上はわたしを評価して、朝廷の中でも重要な役職につけてくれるかも・・・そんなことまで考えていた。
しかし、父の天皇から返ってきたのは、冷たい一言だった。
「そうか・・・西国は平定されたが、東国にもまだ朝廷の支配が及ばない部族は数多くある。お前はその者どもを平定し、朝廷に服させよ」
「え・・・父上・・・」
表情一つ変えずに冷たく言い放つ父の天皇・・・私は呆気にとられていた。
父はそのまま部屋を出ていこうとする。わたしはあわてて追いかけるように言った。
「父上、お待ちを・・・いまわたしは帰ってきたばかりで・・・軍勢もなく東国を平定しろとか・・・そんな無茶な・・・」
「伴としてキビノタケヒコをつけよう。ヒイラギの鉾も持っていくがよい」
父の天皇は、それだけ言うと部屋を出て行ってしまった。
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古事記ではヤマトタケルが実弟のオオウスを惨殺したことから父の天皇は恐れを抱き、ヤマトタケルを遠ざけるために熊襲征伐や東国征伐に送り出しました。
古事記では天皇はヤマトタケルを嫌い、ヤマトタケルはそのことを憂いて悩んでいます。
しかし、日本書紀には父子の関係は良好なものとして描かれています。
日本書紀には熊襲征伐から帰ってきたヤマトタケルに対し「天皇はヤマトタケルの功績をたたえていつくしんだ」と記述してあります。またヤマトタケルの死の報に接したときは「何も手につかず、食事も味わえず、悲しみでむせび泣いた」そうです。
☆キビノタケヒコ
古事記では東征に出るとき、天皇から「御鉏友耳建日子」(みすきともみみのたけひこ)を従者として遣わされています。御鉏友耳建日子はその後、なにか活躍したという記述はありません。
一方、日本書紀においては、「吉備武彦」(きびのたけひこ)と「大伴武日連」(おおとものたけひのむらじ)が天皇により遣わされました。吉備武彦は東征の帰り道、越の国の平定を任されています。
御鉏友耳建日子と吉備武彦が同一人物ではないかとされています。
拙ブログにおいてはこの後の話の流れを考慮し、キビノタケヒコの名を使いました。
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