野見宿祢の自伝 25
陛下が寵愛されていたヒバスヒメさまが薨去された。
陛下のお心を痛めていたのは、ヒバスヒメさまが薨じられた悲しみもさることながら、その葬儀のことだった。
陛下の弟君のヤマトヒコさまが薨去されたときは近習のものが生きたまま殉葬され、悲惨なありさまを呈していた。
陛下は御前に側近のものを集めて仰せになった。
「余はヤマトヒコが葬られた時、一緒に埋められた近習の叫び声が忘れられない。もう、あのような悲惨な声は聞きたくないものだ。
今、ヒバスヒメの葬儀を行って送り出さねばならぬが・・・あの優しかったヒバスヒメだ。あんな状況はヒバスヒメも望んではいないだろう。
どうしたものだろうか・・・」
話を聞いた側近のものは皆黙っていた。殉葬は古来からの習わしだ。そう簡単にやめるわけにはいかない。さりとて陛下のお心内も理解できるだけに、何も言えないのだろう。
その時、わたしはある考えが頭に浮かんだ。それを陛下に進言することにした。
「陛下、生きた人間を埋めるのは確かによくないことであります。そこで、土で作った人形を生きた人間に変えて、御墓に立ててみてはいかがでしょうか。
出雲にこのような土を使って焼き物を作るのが得意な職人の集団がおります。呼び寄せましょうか」
これを聞いた陛下は大変喜び
「うむ、ぜひそうしてくれ」
と仰せになった。
さっそくわたしは出雲からその集団を呼び寄せ、人や馬の様々な形をした焼き物を作らせ、陛下に献上した。
陛下は
「うむ、これこそ余の願っていた通りのことだ!」
と仰せになった。
この焼き物を埴輪と名付けた。ヒバスヒメさまの御陵には初めて埴輪が立てられ、殉葬は取りやめられた。
(画像は写真ACより)
陛下は
「今後、御墓には必ずこの埴輪を立てるように。殉葬は固く禁じる」
と国中に通達を出されたのだった。
わたしはこの功により良質な陶土が取れる領地を賜り、焼き物の職人たちを統括する職を与えられた。
この後、わたしは土師臣(はじのおみ)を名のるようになったのである。
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☆土師氏・道明寺天満宮
この話は古墳に立てられている埴輪の起源とされています。ただし考古学的には否定されています。
この功により野見宿祢の子孫は土師氏を名のるようになりました。土師氏から菅原氏が分かれ、天神様の菅原道真や、更級日記の作者である菅原孝標娘などを輩出しました。
土師氏が祖先のホヒを祀ったのが道明寺天満宮の始まりです。後に境内に道真公が祀られ、時代が進むと天満宮が中心となりました。
また、神宮寺として建てられ、明治の神仏分離令により独立したのが道明寺です。
☆佐紀陵山古墳
はじめて埴輪が立てられたというヒバスヒメの墓は、奈良市山陵町の佐紀陵山古墳だとされています。
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