オオビコの自伝 外伝3(タケヌナカワの自伝)
皇軍はヤサカシとヤツクシの護る砦をなかなか落とすことができなかった。逆に神出鬼没の奇襲攻撃を受け、わが軍の消耗は日に日に激しくなってきた。なんとかせねば・・・
そこで、わたしは策略を使って敵を落とそうと考えた。
まず、最初に私が誓約(うけい)を行った安婆(あば)まで全軍を退却させた。
そのうえで、兵士らの中から特に勇猛果敢な猛者を選抜し、敵軍の背後に回り込ませたのだ。彼らには十分な武器を用意し、準備万端ととのえて派兵した。
そして本隊は船を何艘も作り、いかだも連ねて海に繰り出したのだ。船やいかだには帆柱を高く立て、雲の下で旗を連ねて荘厳に飾り立てた。さらに潮に合わせて笛を吹き鼓を打ち、歌を謡い流したのである。
さあ、この様子を見て、敵軍は司令官であるわたしが死んで、葬式を出したものと勘違いするに違いない。そして油断したところを、背後の山に回り込んだ別動隊が攻め立てるという算段である。
そして事は私が思ったとおりに運んだ。わたしの葬式だと勘違いした敵は、男も女もみなことごとく砦から出てきて、湖面に浮かんでいる我々の船団を嘲り笑ったのだ。
その時、背後から別動隊が敵を攻めてきた!皆、死をも恐れぬつわものの兵士である。
敵は瞬く間に討たれ、滅ぼされてしまったのだった!
首長のヤサカシ・ヤツクシは捕らえらえ、わたしが自ら斬った。
戦いは我が皇軍の勝利に終わった。
この時、敵軍をいたく(派手に、甚だしく)殺した場所を「伊多久」(いたく)と名付けた。
また、ふつに(ばっさりと)斬った場所を「布都奈」(ふつな)と名付け、安く(あっさりと)殺した場所を「安伐」(やすきり)と名付けた。
さらに、えく(手際よく、上手に)殺した場所を「吉前」(えさき)と名付けたのだった。
こうして敵軍を殲滅させた皇軍は、さらに日本の国の平定のため北へ向かって進軍していった。そしてわが軍は、北陸道を進軍してきた父オオビコの軍と、偶然にも落ち合ったのだ。
わたしと父はその地を会津と名付け、日本の国をお産みになったイザナギとイザナミの大神を祀って国家鎮護を祈願したのだった。
ー オオビコの自伝 外伝(タケヌナカワの自伝) 完 ―
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☆地名の由来
「伊多久」は現在の茨城県潮来市潮来(いたこ)だと思われます。また「布都奈」は現在の茨城県潮来市古高(ふったか)に比定されています。
「安伐」はどこか不明。
「吉前」はかつて潮来市にあった小字「江崎」だと思われますが、現在は潮来市小泉南となっています。
☆タケヌナカワの自伝 完結です。
最後までお読みくださいましてありがとうございます。
この話はあまり一般には知られていないと思われます。
最近、私は風土記というものも読み始めました。その中で常陸国風土記を読んでいて、面白いのを見つけたと思って取り上げてみましたが、いかがでしたでしょうか。
次は第11代垂仁天皇の御代を、相撲の祖とされる野見宿祢(のみのすくね)の視点から描いていきたいと思います。
来月半ばごろよりアップロードを始める予定にしてますので、引き続きよろしくお願いいたします。
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