オオビコの自伝 12
ヒコクニブクが射った矢は、軍の後方にいたタケハニヤスに当たった。タケハニヤスは急所を貫かれて即死したのだった。
司令官が射殺されてしまったので、敵軍は混乱に陥ってしまった。
わたしは鏑矢(かぶらや)を空に向かって射った。それを合図にわが軍から一斉に矢が放たれる。
わが軍が射った矢は、敵軍に雨あられと降り注いだ。
敵軍からも反撃があったが、しかし司令官を欠くだけにその反撃も散発的なものだった。
そのうち敵軍は反撃を止め、我先にとに敗走しだした。
わが軍は逃げていく敵軍を追っていく。
そして敵軍に追いつき、淀川のほとりに追い詰めた。わが軍は矢を射て、剣を抜き襲い掛かる。
おいつめられた敵兵たちは恐怖のあまり脱糞し、袴はくそだらけになってしまった。あたりに異臭が漂う中、敵兵に切り込む。
恐怖にかられた敵兵は、次々と斬られ、倒されていた。
死んだ敵兵の遺体は、鵜のように川に浮いて流れていった。
さらに逃げ出した少数の兵士も追い詰め、次々と斬り捨てていき、わが軍はタケハニヤス軍を壊滅させた。
こうして任務を果たしたわたしは、都に戻り、タケハニヤスを平定した旨を陛下に奏上したのだった。
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☆樟葉
古事記には
「(敵兵は)攻められた恐怖でクソが出て袴にかかった。なのでそこを屎袴(くそばかま)と名付けた。今は久須婆という。
その逃げる軍をさえぎって斬れば、鵜のように川に浮いた。その川を鵜川と名付けた。
またその兵士を斬り捨てた(斬りはふりつ)。そこを波布理曽能(はふりその)と名付けた」
と記載されています。
久須婆というのは現在の大阪市枚方市の「楠葉」とされています。京阪樟葉駅の前には巨大な「くずはモール」や関西医科大学くずは病院などがあります。
今も古代の地名が息づいていることに日本の歴史の長さを感じます。(その由来はともかくとして・・・)
後に23代顕宗天皇・24代仁賢天皇が幼少期、敵に追われて久須婆の川を渡り避難しています。また26代継体天皇は「樟葉宮」を置いています。
また鵜川とは、くずは地区の東側を流れる淀川のことでしょうか。
(あるいは木津川の上流部ともいわれます)
☆祝園
また「波布理曽能」は現在の京都府相楽郡精華町の祝園(ほうその)とされ、JR祝園駅・近鉄新祝園駅を中心に街並みが広がってています。
タケハニヤスの亡霊がこの地にとどまり人々を悩ませていたのを鎮めるために、春日大明神を勧進して創建されたと伝わるのが祝園神社です。
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