イツセとイワレの兄弟は、安芸・吉備での数年間の滞在中、各地の豪族を従え東国統治の基礎をかためていった。そして兵站を整えて、東に向け船団を出港させた。
するとそこに、亀の背に乗って釣りをしながら船団に向かってくる男がいた。。
兄弟は興味を持ち、兄弟の乗っている旗艦を男が乗っている亀に寄せていった。
イツセがその男に向かって
「そなたはこの国の者か」と問うと、彼は
「さようでございます」と答えた。
イツセはさらに続けて話す。
「そなたはここで釣りをしていたようだが、この辺の海には詳しいのか?」
「はい、よく知っております」
「ここまで穏やかな航海が続いてきたが、この先の海はどうだろう?」
「ここから東に進みますと、とても潮の流れが速い場所がございます。これまで多くの船が潮に流され、巻き込まれて沈んでいる難所で、速水門(はやすいのと)と呼ばれております」
「そうか・・・それは危険だな・・・」
この会話を聞いていた弟のイワレは、ふとひらめいてイツセに言った
「兄さん、どうでしょう、この方を案内人として船に乗せてみては」
「そうだな・・・そなた、我々に仕えないか?」
「はい、謹んでお仕え申し上げます」
そこで彼に竿を差し出し、兄弟の乗る旗艦のほうに引き入れて招き入れた。
彼にはサオツネビコという名を授けた。
こうしてサオツネビコの案内で、船団は潮流の早い明石海峡を無事に抜け、機内へと近づいていった。
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☆速水門
速水門、固有名詞としては大分の関岬と愛媛の佐多岬の間の豊予海峡のことで、今も「速吸の瀬戸」と言われています。
しかし、古事記では吉備を出た後に豊予海峡に至るというのは、つじつまが合いませんね。伝承に誤りがあったともいわれますが、古事記の編者がそんな単純な誤りに気づかないだろうか・・。
ここは単に「潮流の早い海の門(狭まっている場所)」という一般名詞なんでしょうね。
その場所については諸説ありますが、地理的に言って明石海峡と考えるのが一番自然でしょう。